【第1回】社会・文化論から見たモバイル社会の問題と可能性(後編)

オピニオン!モバイル社会への提言

自分の生活なり、世界をいかに編集していくか。

比較文化的・歴史社会的な観点からモバイルメディアの社会的文脈を捉える水越助教授。その深い見識から放たれる幾多の提言と展望の数々に、モバイル社会研究所副所長の山川隆が迫る。

話者のご紹介
水越 伸 – 東京大学大学院情報学環助教授
山川 隆 – (株)NTTドコモ モバイル社会研究所副所長

山川:こういう変化の激しい状況の中で、大人や子どもも含め、私たちはどう対処していけばいいとお考えですか。

水越:モバイルのメディアとモバイルの文化というものをより合わせていく時の混沌の度合いは、新聞やテレビといったこれまでのマスメディアと比べはるかに大きい。加えて、モバイル文化が生まれてからまだ十数年しか経ってないという状況からすれば、リテラシーの問題、あるいはコミュニケーションの問題というのは子どもだけのものでは決してないですね。

今、パーソナルメディアの展開はすごい位相に入ってきています。これほどの機能のものを身に付けて歩くことができるという事態を、僕たちはかつて経験したことがない。これまでは、つねに対面して話をすることを十全としたコミュニケーションとしてきたわけですが、今後それだけでやっていくことはたぶんできないでしょう。今僕らは身体的に空間を共有していても、ケータイでメールをしていたり、あるいはパソコンで遠隔地とつながっていたりして、対面の中にもバーチャルな要素が入り込み、非常にハイブリッドな状態になってきています。これは食い止められないと思うんですね。では僕ら一人ひとりインテグレードされた個人という単位を、どのような形のハイブリッドにしていくか。その時に、僕らはケータイをどう使いこなし、それを自分の中でどう位置付けるのか――僕はこの状況の中で、自分や自分の生活なり、世界というものを編集していく必要があると思っています。場所であるとか、身体であるとか、家族というものを自分なりの物語に紡ぎあげる。つまり、ケータイからの情報と、たとえば対面して家族から得た情報と、地域の図書館で得た情報をどうエディットしていくかが大切になると思うんです。だから、そういう高度な編集能力やリテラシーを子どもも大人も持てるようにするようなプログラムを用意しないといけない。

山川:そういうエディットしていくという考え方からすると、バーチャルとリアルを分ける必要はないのかも知れませんね。いろんな技術を駆使する自分を、リアルな自分の中に統合し編集していくためのコンテクストをつくっていくことが大切だと思います。リアルがありバーチャルがあり、あちこちに核が分散してしまうと、たぶん自分自身が分裂してしまうような気がするんです。

水越:おっしゃるとおりだと思います。残念なことですけど、ケータイが関わる犯罪は増えてくるでしょう。コロラドのコロンバインの話じゃないですが、犯罪とメディアの関係を考える上で、社会やその人の状況を切り離して考えるわけにはいきません。事態を悪く進めるか、良く進めるのか、モバイルメディアという新しいメディアには、可能性が開かれているわけです。そこをきちんと議論していければいいですね。

山川:それこそ、我々の使命だと思っています。それと私よく思うのですが、モバイルの技術も人間の願望がつくりだしてるのであり、人間が望んだ結果です。ただし、全部が望ましい結果になったわけではありません。社会的に軋轢を生んでしまった部分もありますね。

水越:たとえば100年ぐらい前に出版された技術についての挿絵集というのがあるんですけれど、今おっしゃった人間の願望がたくさん載っています。これを見ると、実は19世紀後半に、人はケータイ電話を夢想していたことがわかる。そういう絵があるんですね。さらに帽子のツバに小さい画面があって、そこでテレビが見られるようなものも、19世紀後半ぐらいに描かれていました。そういう意味でいうと、願望の歴史は長いんです。

山川:大変興味深い本ですね。そうした人間の願望がある意味叶い、新しいテクノロジーが出てきた時に社会や人にどんな影響を与えたかという点は、今のモバイルを考える上でも重要ですね。

水越:鉄道が19世紀の半ばにできた時、最初に何が起こったかと言うと、何十人もの人が亡くなる事故でした。ダイナマイトが世の中に出た時には、巨大な爆発事故が起こりました。テクノロジーの夢から引き起こされた事故というものをどう社会が捉え、それをどう折り込んで、いかにリアルな文化をつくっていくか、ということが問われたわけですが、モバイルは今、そういうものにさらされていると思います。歴史の中で語られていた夢物語では用意されていなかった現実を、僕たちはしっかりと捉えなければなりません。

これからもデジタルメディア爆発が続いていく。

水越:僕は19世紀の後半に、進化論で言うところのカンブリア爆発的なことが起こったと思っています。例えば1840、50年代にモースが電信を発明し、1860年代に白熱電球が出てきました。70年代に蓄音機、電話、90年代に無線が出てきて、映画が電気化されていく。1850、60年代から1920年代くらいにかけて、すごい混沌が起こるわけです。僕はそれを電気メディア爆発と呼んでいます。おそらく1980年代から2000年代、そして今から2、30年はデジタルメディア爆発というような状況が続いていくと思っています。僕らはカンブリア爆発と同じような状況の中に今いるわけです。この混沌を、非常にペシミスティックなものにするのか、喜ばしき混沌にするのか、僕らは自分たちで責任とっていかなくてはならないし、みんなで考えていかなくてはならないことだと思います。

山川:我々の知恵の問題ですよね。

水越:ええ。ですから、子どもに教えることはすごく大事。なぜかと言うと、子どもから教えてもらえるからなんです。子どもに会ってケータイの話をすると、彼らからいろいろ僕らは教えてもらうことができる。そういうかたちで、みんなでこのことを考えていく必要があるという気がしますね。デジタルメディア爆発――山川さんはニフティの頃から、そのいちばん初めから見てらっしゃるはずです。

山川:ニフティの頃は、自分の場ではなく、パブリックな場でコミュニケーションしていくフォーラムというのがありました。今は他人とコミュニケーションを行うとしても、自分の場に同調してくれる人にきてもらって、自分のプライベートな場で、自分式の議論をするという格好ですね。このままでいいのかという懸念はあります。

水越:かつてニフティのフォーラムがもっていたようなある種のパブリックなコミュニケーションを、ケータイの世界でどうデザインしていくかということは、事業収益にもつながる話だと思うんです。ケータイの普及台数は今全部で8000万台くらいですか。

山川:PHSと合わせて8500万台です。ほぼ労働人口を上回ったくらいなんです。ですから、普通に使っていたら、もうこれ以上は増えないところまできています。

水越:事業面でも、文化的にも、あと4000万の人たちをどうするかという話ですね。彼らを対象からはずし、今のところでもういいんだと考えると、僕は長い目で見るとモバイルメディアの生み出す文化というのは、今僕らがいけないと考えている方向にいってしまう可能性があると思います。そういう意味でも、僕はパブリックなコミュニケーションというのはとても重要だと思います。そこをどうシステム化するか、どう文化にしていくかが大事です。すごく仲のいい大学時代の恩師でメールもケータイもやらない方がいるんですが、すると、周囲の連絡の手段がケータイとかメールになっていますから、みんな連絡をとらなくなる。僕の母もケータイをもたないんですが、やはり僕も以前ほど連絡をしなくなってしまいました。先生や母のような層をどうするかという問題がありますね。

山川:我々の社会をどうしていくのかということをしっかり意識して、全体をよく考えていかないと広い層の参画は得られないですね。ある部分を切り捨ててしまうと、社会の進歩は歪んでしまうと思います。

水越:ユニバーサルコミュニケーションという全世界で言われてる言葉があります。電々公社の時代にもユニバーサルコミュニケーション、いわゆる全国即日通話というイデオロギーが出てきました。そういうものと違う意味での、新しいモバイル時代におけるユニバーサルコミュニケーションというものを考えていく必要があると思います。それは全国あまねく同じサービスをするのではなく、極めて多様性を孕んだユニバーサリズムでなくてはならない。その人なりのカスタマイズもできるような多様性こそ、今、必要なんだと思います。そのために、僕らは僕らのできることを、ひとつひとつやっていきたいと考えています。

山川:ぜひ、お願いいたします。本日はありがとうございました。

※所属はインタビュー当時のものです。
(インタビュー実施日:2004年6月22日)

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