Etienne Barral氏

Q1. フランス出身でありながら日本のサブカルチャー状況について詳しいお立場として、サブカルチャーとモバイルメディアをめぐる関係について、何か日頃感じていたり考えていることがあったら、お聞かせください。

私は、現実の個人とバーチャルなアバターとの間に、なんらかのインタラクティビティが生まれると予感しています。そして、いつかモバイル機器によって、ユーザーは自分たちの実世界の実存とバーチャルなアバターを一致させることができるようになると思います。今までのところ、バーチャル世界の自分は、実世界の自分がコンピュータの前にいてオンラインの時に「生きている」だけです。

でも、そう遠くない将来、ユーザーは自分のアバターをどこへでも連れて行けるようになるでしょう。そのアバターは、現実世界の経験(例えば、ハンドヘルドな機器で撮影された写真ですが、友人や家族にではなく、アバターからほかのアバターに送られた写真)を携えてバーチャル世界を育むでしょう。人間の社会化過程については、現実世界の存在だけでなく、現実世界の周囲を連れ回されているアバターも考慮に入れなければならなくなるでしょうね。

モバイルリテラシーと機器を通じて提供されている機能の多様性の観点から見ると、日本は境目にあります。mixiユーザーが、携帯電話でmixiを利用できるというのは、バーチャルなコミュニティのメンバーをハンドヘルドな機器を通じて現実世界に接続する試みのまさしく最初の段階なのです。このことは、何がセカンドライフ2.0になりうるのか、そのヒントをもたらしてくれます。

セカンドライフが日本で広く利用できるようになれば、現実世界のユーザーがいつでもどこでもバーチャル世界と対話できる携帯電話版のセカンドライフが想像できるでしょう。Flashで生成するそのコンテンツには、アバターが「住む」のです。

同じようなモバイルコンテンツは、オンラインゲームの“World of Warcraft”やその他のMMORG(Massively Multiplayer Online Role-playing Game:多人数同時参加型オンラインRPG)でも考えられます。そうなればゲーマーは、ゲームできる環境にいない場合でも、まさに24時間の体験ができるのです。

ゲームのバーチャルな世界、地図が立ち上げる世界(Google Earth)、現実世界、その三者のインタラクションの可能性は、そのユーザーやそのアバターにとって限りないのです。半リアルな世界のイベントにファンたちがバーチャルに集まる。あるいはその逆に、ゲームの中のアバターが現実世界で集う。例えば、オンオフ式のバーチャルイベントのために渋谷駅や秋葉原に集う。私にはそんな予感がしますね。

Q2. ブログやWiki、あるいはSNSといったCGM(Consumer Generated Media)は、従来のメディアのように少数のプロフェッショナルによって完結したパッケージとしての表現が主流だったところに、多数の人々の参加や対話によるエンドレスでオープンな表現のスタイルを定着させつつあるように見えます。また、こうした表現スタイルと、従来オタク達が培ってきたコミュニティ性や参加性とも共通項もありそうです。ただ一方で、そうしたインターパーソナルな表現から生まれるコンテンツに対しては情報の信頼性や知的所有権など様々面で課題もあります。ユーザー自身がコンテンツを生成していく時代、文化はどんな様相を呈していくことになるのでしょうか?
またモバイルメディアを使う個人にとって、従来のようにテキストや画像主体ではなく、ビデオを使ったコミュニケーションへと拡張していくためには、どんなスキルやセンスが必要になってくるでしょうか?広い意味でのリテラシーについてのお考えを聞かせてください。

ご承知のように、情報の知的財産権はすでに時代遅れです。コミュニケーションツールの1つとして情報を共有するユーザーが抱いているコンテンツに対する欲求には持ちこたえられません。

話すことと書くことは、歴史的にコミュニケーションの主要な道具だった訳ですが、今日では、コミュニケーションは視覚(visual)と聴覚(audio)にも基づいています。言語を通じて考えを共有するだけではなく、仲間同士の結び付きを強めるために視覚や聴覚の経験をも交換するのです。MySpaceとYouTubeの成功は、そうした世界的な傾向の好例です。すべての人がモーツァルトやピカソではありませんが、音響と映像のコミュニケーションは、音楽の教養のあるエリートや天賦の才あるアーティストだけの特権であってはなりません。ビジュアルコミュニケーションの時代にあっては、他人の作った芸術作品の借用/再-自己化(re-appropriation)、つまり「わが物にする」ことを通じてユーザーが自らのパーソナリティを表現することが許されるべきなのです。有名なクリエイティブな作品の共有、例えば、ピカチューやエヴェンゲリオンのような有名なキャラクターのパロディを通じた仲間同士の結び付きは、著作権のあるコンテンツの不正使用と見なして訴えられるべきではありません。メディア企業は、むしろこれを新しい表現形式として容認すべきです。

私は個人的に、著作権保護はやりすぎだと考えています。テクノロジーによって、著作権所有者は、まさにエンドユーザーに至るまで追跡できるのです。

しかし、日常生活において私たちを取り巻いているすべての音や画像は、参考やコミュニケーションの道具として使われた時にはいつでも著作権料の対象とすべきものなのでしょうか。私たちが自身を表現するために文章で用いる単語には、著作権はありません。画像と音は、今や私たちのコミュニケーションシステムの不可欠な要素なのに、なぜ別に扱われるのでしょうか。大きなメディア企業である著作権所有者は、テレビCMを流したり、ポスターを貼ったりします。混み合った交差点で広告トラックの大きなパネルを広げたりします。これは頼んでもいないことであって、スパム手法の現実社会版とも言えるものです。著作権所有者は、そうやって日常的に消費者を洗脳しているわけです。でも、その著作権保有者が、自分が著作権を持っているものをブログやファン雑誌(同人誌)に使った個人を追跡するのです。

とはいえ、著作権のあるコンテンツをユーザーが自分の作るものに取り入れる事ができるよう、ユーザーとアーティスト、あるいは著作権で保護された素材の所有者との間には、新しい形の紳士協定をはっきりさせないといけません。電子商取引は、著作権所有者に対して個人レベルで支払いを行なう唯一の解決方法かもしれません。企業は、著作権のあるコンテンツに利用回数に応じて料金を支払う電子商取引システムを組み込む事を検討すべきです。デジタル機器による利用をコントロールして「不正」コピーを防ぐ目的で歌や映画の中にDRM-typeを付け加えるのではなくです。そうすれば、ブログやファンサイトで著作権のあるイラストが使われた時、少額の著作権料がコンテンツ所有者に対して自動的に支払われます。ブログのアクセス数に応じて、あるいはブログでのアフィリエート収益から一定の割合でオリジナルコンテンツの所有者に再配分されるようにするのです。これはもともと、トランスコピーライトの概念に基づいてテッド・ネルソンが生み出したアイデアです。

情報の信頼性に関係する限りでは、メディアリテラシーが鍵となります。一般市民は、情報同士を照合してチェックする必要があります。また、情報源によるところの情報が信頼できるものなのかを評価する方法を学ぶ必要があります。私が個人的に賛成するのは、情報を人気度で評価する(Googleのシステムがそうです)だけではなく、信頼できそうかどうかをも考慮する検索システムですね。問題は、情報の所在がユビキタスで、しかも瞬間的でしかない時代の中で、知識に基づいてコンテンツの信頼性を評価できる権威をどうやって決めるのかです。

Q3. 前の質問に関連しますが、ユーザー参加性の高いメディア、特にモバイルメディアが人々にとってある種の表現や創造の道具として機能していくとしたら、そこにはどんな新しいリテラシーが立ち上がっていくと思われますか?また、新しいリテラシーを身につけていくための「教育」はどうあるべきだと思いますか?また、あなたがご存知の範囲でユニークな、もしくは注目すべき教育関連の実践があったらご紹介ください。

情報とコンテンツで溢れかえらされることなく、どうやって集中し続けるか。それが問題だと思います。実際の問題は、情報へのアクセスを増やすことよりも、関連のある秩序だった情報への即時アクセスをどうやって増やすかです。あらゆる人があらゆる事柄について書いていますから、Googleで検索するというのは、次第に今日的な意味を持たなくなっています。お金を出せば、他の情報提供者より優位に立てますから、ますますもって今日的な意味を持ちません。即時性をむやみに崇めれば、一番意味のある情報でも、それが1ヵ月前のものだということだけで遅れた情報にされてしてしまいます。あらゆる人がメディアを生成していますけれども、もう誰も記憶にとどめることはもちろん耳を傾けることもしないのです。それはあたかも、舞台の上でモーツァルトが演奏されていても、それに注意を払うこともなく自分たちの領分を守ることに興じている人たちとコンサートホールで同席しているようなものです。そうでなければ、モーツァルトも聴衆の中にあり、他のみんなと同じように不協和音の要素になってしまっていて、彼の才能にはもはや誰も気付かないということなのかもしれません。企業は、アーティストを舞台に上げるためにお金を払っています。才能があるかないか、もはや誰もそのいずれも聞いていない訳です(今日知られているように、商業テレビはおそらく瀕死のメディアです。というのは、ユーザー生成コンテンツやインタラクションという、今日個人が関心を持っている唯一の経験が可能になっていないからなのです)。みんなブログ作りという自分のための経験に夢中で、状況をより全体的に把握する時間がありません。真の才能の見分け方は、もう誰も知らない。でもデジタルツールによって、自分がモーツァルトやピカソになる空想に誰もが陥りやすくなっているのです。今日最も必要な教育は、リテラシー、メディアリテラシー、コンピュータリテラシーに次いで、「コンテンツリテラシー」や「時間リテラシー」かもしれません。人々は、「価値ある」コンテンツを判断できないのです。また、即時的な満足感に心奪われずに時間をかけて経験を大事にするということができないのです。

残念なことに、性教育同様、あらゆる人が、メディアリテラシーや将来考えられるコンテンツリテラシーに関する限り、わからないまま放置されています。コンテンツを生み出す新しい機器の扱い方を見つけ出すのは個人次第です。試行錯誤のプロセスを通じて。若者にはこれらの新しいメディアを使う才能がありそうに見えるかもしれません。でも実際はおそらく、言語を話したり書いたりする基本を学校で教わるのと同じくらい、彼らにはコミュニケーションの文法を学ぶ必要が最もあるのかもしれません。若者には、モバイルコミュニケーションツールを通じて彼らが手にする能力を対象化して考えるための文化的なバックグラウンドがありません。彼らは、新しい文法、新しいコードを自分たちだけで発明しなければなりません。彼らの周辺の社会集団(家族、学校の友達、地元コミュニティ)よりも、モバイルメディアを通じてオンラインで出会う人々の方がより彼らの文化的な関係項となっているのです。若者にとって、オンラインコミュニケーションは、実生活の会話よりも実際的な意味を持ちつつあります。現実世界のコミュニティでスキンシップをとることよりも、バーチャルなアバター同士で会話することのほうが重要かもしれないのです。私は保守的と思われるつもりはありません。私の狙いは、歩み寄りの必要性を確認することなのです。

フランスのパリでは、ある興味深い体験が実際に人気を博しています。それはオンラインネットワークと現実の地理的なコミュニティの両方に焦点を合わせたもので、興味関心を同じくする人々が、考えの似ている仲間をオンラインで見つけ、オンライン、オフラインのいずれにおいても集まって対話するというものです。そうでもしなければ、未来は完全に精神分裂病的なものになってしまうでしょうから、これは、未来へ向けた解決策なのかもしれないと思います。

Q4. 携帯電話やPDAなどモバイルメディアの普及浸透する社会を構想しようとする作業は、これに関連する企業や知識人の間で様々に試行錯誤されてきました。あなたは、モバイルメディアが普及した近未来は、どんな社会になると考えていますか?なるべく具体的にお聞かせください。

自己の延長が大都市にのまれその姿を没している、そんな私たちの日常生活にとって、モバイルメディアは欠くことができません。今日、これにはほぼ全員の人がうなずくでしょう。ここで私は、匿名のペルソナ(人格)を使うユーザーを保証する必要があるということを言いたいと思います。それは、モバイル機器を使う時も含めてです。大迷宮の中で、その人たちが自分の道を見つけるのを助けるのはモバイル機器です。テクノロジーによって、エンドユーザーは自分たちに意味のある情報を集めやすくなったのです。

しかし、ハンディーな機器を使うことには代償が伴います。明けても暮れても継続的に「追跡されている」のではないかという不安を感じることになるのです。いわゆる「バーコード」社会が持つそうした恒常的な圧力は、別に詐欺師や泥棒にならなくたって感じられます。日常的な営みのためには引き続き匿名的でありたいと思っても無理もありません。でもそれは、今のモバイル機器では保証されえないのです。人間のモバイル機器に対する依存度は、ますます強まっていますけれどね。

日本では、自由を喪失しているという感覚よりも、安全性が向上しているという認識のほうが強いです。でも、ヨーロッパや他の西洋社会のエンドユーザーにはまだ、自分たちの所在をすべて記憶して追跡するような万能モバイル機器を信頼する心構えがありません。フランスで、モバイル機器の可能性が議論される時はいつも皆が、例えで、英国の高名な小説家ジョージ・オーウェルの「予言的」とも言える作品『1984』を引き合いに出すのです。実際的な観点から言えば、モバイル機器メーカーは、どの程度まで追跡されたいのかをユーザー自身が設定できるような機器を開発すべきです。いくつかの匿名のレベルから選択して設定できるといいと思います。そうなれば、オンラインマーケティングのターゲットになるのを何とも思わない人は、日々の買い物内容を蓄積して、それと引き換えにインセンティブを受け取れます。匿名性に対して意識のある人は追跡されているという恐怖感に見舞われることなく、引き続きデジタルな方法を用いながら生活できます。紙幣や硬貨を使う時と同じように無記名で商取引を行なえる、それくらい匿名的なものが開発されるまで、モバイル機器が全国的に普及する事はないだろうと思います。

モバイル機器のユビキタスモデルは社会に基礎を置いている訳ですが、その点ではモバイル機器の盗難や故障が発生した場合、そこに保存されている情報への即時アクセスをどうやってユーザーに保証するかという問題もあります。ユーザーのモバイル機器が一時的あるいは決定的に利用できなくなったら、それらのデータを扱うのは現実的にはきわめて厄介です。 それは日本の実例でもはっきりしていますね。ユビキタス社会に基礎を置いているモバイル機器の販売促進をいっそう進めるには、この問題に取り組まないといけません。

Q5. あなたの暮らす国・地域で、モバイルメディアはどのように活用されていますか?あなたが日頃感じている、何か特徴的だと思われることや、社会が直面している問題などがあったら教えてください。また、あなた自身がモバイルメディアをどのように活用されていますか?

現在フランスでは、モバイル機器は基本的に2つのタイプに分けられます。1つは標準的な携帯電話です。もう1つはBlack Berryのようなモバイル機器で、電話とインターネット閲覧の機能のあるPDAが2~3機種あります。こちらは、高所得のビジネスエリート向けですね。

平均的なユーザーは、主に電話をかけたり、写真を撮ったり、音楽を聴いたり、ビデオを見たり、SMSを送るのに携帯電話を使っています。携帯電話のEメールは、フランスでは携帯電話の使い方としては普及していません。SMSは160文字までしか送れませんが、ほとんどのユーザーはそれで満足しています。i-modeタイプのサービスは、ずいぶん遅くなってから導入されましたが(2002年11月)、まだほんの一握りのユーザーしか利用していません。ですから、携帯電話専用のメールアドレスという概念は、まだほとんど知られていません。フランスや他のヨーロッパ諸国の携帯電話普及率は高いのですが(フランスで81%、イタリアで110%)、基本的な機能だけが広く使われているのです。携帯電話での支払いやGPS関連データへのアクセス、ワンセグTVサービスもまだ知られていません。携帯電話の使い方に関して言えば、年齢の高い世代と若者の間には大きな隔たりがあります。携帯電話でMP3の音楽を聴いているのは全携帯電話所有者の14%だけですが、15~20歳の59%は携帯電話のMP3機能を習慣的に使っているのです。

フランスでは、セキュリティが、日本よりも大きな問題になっているようです。新たに任命されたニコラス・サルコジ大統領府は、ハンドヘルドな機器の安全上の問題を掲げ政府に関連することで、Blackberryを使用することを閣僚と大統領補佐官全員に対して禁止してしまいました。データの盗難や盗聴を恐れたのです。

インタビュー:海外オピニオンリーダー

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